人類日本列島へ
今から7万年前にアフリカ大陸を離脱した人類の祖先が、スンダランドにやって来たのは6万年前であった。
4万年前になると、一部のグループはスンダランドから海路フィリピン、台湾、琉球という南方ルートで日本列島へ渡来する。一方、スンダランドから陸路北上し、3万年前にシベリアへ到達したグループもあった。彼らの一部はナウマン象などの大型獣を追い、北方ルートで日本列島へ渡来した。
彼らがやって来られたのは、当時は氷河学的にいう「氷期」にあたっていたため、海水面は今より60メートル以上低く、日本は大陸と陸続きであったからである。
またアフリカを離脱した人類はスンダランドに至る過程でインドを経由している。インドに残った人々の子孫がドラヴィダ人となるのだが、ドラヴィダ人はDNAの観点から古モンゴロイドに分類されるという。実は、太古の日本に暮らした縄文人もまた主に古モンゴロイドであったといわれていて、ドラヴィダ人の思考と縄文人の思考には、どうも共通するものが見出される。
土器の発明と縄文時代の始まり
一般に最終氷期が終わるのは1万2千年前~1万年前とされているが、これは欧米を中心とした解釈であり、東アジアに位置する日本では1万6千年前に、地球の温暖化による海水面の急上昇が起こり、現在のような列島となった。
世界の考古学では最終氷期の終わりをもって旧石器時代の終わりとし、後氷期の始まりをもって新石器時代の始まりとする。新石器時代の定義の1つに、土器の使用、弓矢の使用があるのだが、日本で見つかっている最古の土器は1万6千年前とされていて、これが縄文時代の始まりと考えられている。
つまり世界的に旧石器時代の終わりとされる1万2千年前~1万年前より4千年以上も前に日本では土器が発明され、新石器時代の幕開けとなった。ヨーロッパや北アメリカよりも先に、東アジアで新たな文明の時代が始まったのだ。
土器以前の器・ひょうたん
世界の民族の中には土器を持たない民族も多い。そのような民族の間で、広く器として使われてきたのがひょうたんであった。
ひょうたんの原産地は西アフリカであるから、アフリカを離脱した人類の祖先の移動とともに広まったという可能性が濃厚だ。彼らは食料として、また水を入れる器として役に立つひょうたんの種子を携え、行く先々で栽培を続けたに違いない。
日本でも福井県の鳥浜貝塚からは、縄文早期のひょうたんが発掘されている。鳥浜貝塚は自然の冷蔵庫と評される低湿地遺跡で、当時の丸木舟、弓などの木製品をはじめ縄や編み物などが多量に出土したことで知られている。
日本の多くの遺跡は酸性土壌のため、有機物の遺物が姿をとどめている可能性は少ないが、鳥浜貝塚は低湿地という好条件が幸いして、有機物の遺物も腐敗せずに遺された。
アフリカでは、ひょうたんは母胎や多産の象徴とされ、中国では、苗(ミャオ)族の祖先神である女媧(ジョカ)はひょうたんから生まれたという神話が語り継がれている。このひょうたんを真似た実用品として発明されたのが土器だった。土器もまた、ひょうたんと同様、母胎を象徴するものと解釈されていたと思われる。
縄文土器とは
日本で土器が発明された1万6千年前から、弥生時代の始まる2千3百年前までの1万数千年間を縄文時代という。この時代の多くの土器は、縄目文様が付けられていることから縄文土器と呼ばれ、縄文時代の名前が生まれた。
ただ、最古の土器には縄目ではなく隆線文という文様が付けられているし、つめ形文、押型文など縄文以外の文様をもつ土器は少なくない。だがその中でも縄目文様が多く見られることからそれらを縄文土器と総称し、作った人々を縄文人と呼んでいる。
世界的にも、土器が最初に発明されたのは日本列島だったという説があるし、中国大陸だったという説もある。いずれにしても、世界に先駆けて東アジアのどこかで土器は発明された。
氷期の終焉による環境変化で、それまで多く生息し人類の食料となっていた大型動物が減少したことから、食料は中小型動物のほか熱調理が必要な植物質食料へと変化する。そこで煮炊きが必要となり、ひょうたんをモデルに土器が発明されたと考えられる。
(以上 第1節「人類日本列島へ」より)