縄文人はなぜ1万年以上もの期間にわたって、
縄目文様を刻みつづけたのだろうか
私の故郷は北海道南部のせたな町である。町の中央には、道南一の大河である利別川が流れている。
改修が行われる前の利別川河口部は蛇行が激しく、洪水のたびに流れを変えたが、かつて川筋であった河岸段丘にはたくさんの遺跡があり、土器や石器などを拾い集めることができた。私も小学校高学年の頃から、年上の子どもに連れられて遺物収集に精を出した。
私の拾い集めた土器は縄文土器と呼ばれるもので、1万6千年前頃から2千3百年前頃まで続いた縄文時代の人々が遺したものであることを知った。だが、なぜ人々は1万年以上もの長きにわたって、土器に縄目文様を刻み続けたのだろうか。当時の私には皆目見当がつかなかったが、いつか必ずこの文様に込められた縄文人の心をつきとめたいと思った。
中学3年生のときに、私は壺や鉢など完形のものも含めて40個体分の土器を発見し、新聞でも報道された。縄文土器の中でも亀ヶ岡土器に分類され、今から3千年ほど前のものであった。
中学生時代の私は、同じせたな町内で、さらにもう1つの大発見をしていた。それは日本では発見例のごく稀な石鉞(せきえつ)だった。中国の新石器時代、孔のある石斧は石鉞とよばれ、本来は石斧と同じく工具として使われていたが、あるときから武器あるいは武威を象徴する威信財として利用されるようになったという。
石鉞を見つけた場所は縄文早期から晩期までの複合遺跡であったから、時期の特定はできなかったが、遠い昔に中国大陸から北海道へ渡ってきた人がいたことを思い、心踊らされた記憶がある。
50年来の思いを込めて
縄目文様に込められた思いを探り当てたいという気持ちは、50年ほど経った今なお変わらず、土器や石器を探し求めて歩き回った故郷の遺跡を思い出しながら、土器の文様に込められた縄文人の心を探し求めているのだが、私がとくに惹かれた亀ヶ岡土器も、どうやら中国大陸から渡来した人々の影響を色濃く受けているのではないかと考えるに至った。さらに先人の知見を紐解き、また世界各地の古代遺跡を見渡すと、縄文人が遺したものと、海外の遺物・遺構との間には、驚くべきほどの共通点が認められるのである。
今のような交通手段のなかった時代に、幾百年、幾千年かけて行われた地球規模の文化・文明の交流は、壮大な夢を見させてくれるが、アカデミズムの住人たちはなかなか私の欲する答えを与えてくれない。それでは、よしっ、と一念発起し、素人の私が私なりに半世紀かかって温めてきた「縄文考」を発表するに至った次第である。
(以上「はじめに 亀ヶ岡土器との出会い」より)