アイヌ刺繍に隠された甲骨文字
アイヌ刺繍は家紋のようなもので、各家に固有のデザインが母から娘へと代々受け継がれてきた。複雑に見える図柄も、基本的にはシンプルな文様を組み合わせたものだ。
そういった文様の1つに、「モレウ」という渦巻き文があり、モレウを左右対称に2つ組み合わせた文様は「ウレンモレウ」と呼ばれている。
図は北海道開拓記念館蔵の明治期のものと思われる木綿衣で、ここにもウレンモレウ文様が見られる。ウレンモレウ文様は、よく見ると甲骨文字の「」(真虫)にそっくりの図形を上下左右に反転させたものから成り立っている。私は遮光器土偶などの図柄と同様、おそらくこれも甲骨文字に由来すると見ている。
ただ当のアイヌ社会では、ウレンモレウ文様はコタン(アイヌ社会を構成する最小単位の集落)の守り神であるシマフクロウの目を表していると伝えられてきた。しかし伝承は伝承として、それが成立する以前、この文様の発祥にまでさかのぼれば、殷渡来の甲骨文字に行き着くように思えてならない。
つまり、3千年前の殷王朝滅亡のとき、東北地方北部と北海道へ逃れ来た多くの殷人が、津軽海峡両岸に暮らした縄文人に影響を与え、亀ヶ岡文化を開花させたと考えられるが、アイヌ民族は、土器文様に甲骨文字を採り入れたこの地域の縄文人の直系の子孫であると思うのだ。
シクウレンモレウ文様がクッキリ見える長倉土偶
アイヌ文様の中には、「シクウレンモレウ」と呼ばれる文様がある。ウレンモレウ文様の上に、内側に反った菱形を乗せたような図柄であるが、岩手県軽米(かるまい)町の長倉遺跡から出土した遮光器土偶の胸には、これとそっくりの文様がクッキリと描かれている。
これは偶然の一致ではなく、アイヌ民族は縄文人の直系の子孫であり、アイヌ文様のルーツは縄文の亀ヶ岡文化、さらには殷の文明にさかのぼるからではないだろうか。
またアイヌ民族の彫刻にはウロコ彫りという三角形の連続文がある。蛇のウロコを連想させることから、縄文土器の縄目文様が形を変えたものかと思われる。
(以上 第5節「縄文からアイヌ文化へ」より)